日の名残り(カズオ・イシグロ)|作品を読み解く5つのポイント

日の名残り イギリス文学

TITLE : The Remains of the Day
AUTHOR : Kazuo Ishiguro
YEAR : 1989

GENRE : History, Memoir

sunset beach
画像提供:pixabay

「夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」

P350-351(『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、早川書房、2001年)

テーマ:人生の岐路

【作品を読み解く5つのポイント】
1、仕事人間
2、品格とプライド
3、信用ならない語り手
4、偉大なるものの落日
5、スティーブンスと日本人

【1】仕事人間

「24時間働けますか?」

会社に忠誠を誓い、
プライベートをなげうって、
朝から晩まであくせく働いた企業戦士たち。

全盛期はとうの昔に過ぎ去り、
社会も会社も、様変わりして、
自分のやり方を根本から見直す必要に
迫られる。

「お役御免」の言葉が頭をよぎるとき、
彼らはなにを思うのでしょうか。

「あなたにとってはどうなのですか、ミスター・スティーブンス?ダーリントン・ホールでのあなたには、どんな将来が待ち受けているのでしょう?」
「さて、何が待ち受けているにせよ、それは虚無ではありますまい、ミセス・ベン。私などは、そうであってくれればと願わないでもないのですよ。しかし、とんでもない。仕事、仕事、また仕事でしょう」

P339(『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、早川書房、2001年)

主人公スティーブンスが
なによりも重んじてきたものは、
執事の品格です。

「偉大な執事とはなにか」ということを
常日頃から強く意識しているのです。

ダーリントン・ホールの所有者が変わり、
アメリカ人の主人のもとで
働くようになった現在でも、
彼はその姿勢を崩そうとはしません。

人手不足に悩まされ、
ボスの「アメリカ式」に戸惑いながらも、
最良のサービスをなんとか維持しようと
奮闘します。

【2】品格とプライド

物語の大部分は、スティーブンスによる
執事人生の回顧録となっています。

彼にとっては、ダーリントン卿に執事として
仕えたことが人生そのものであり、
それが心の拠り所にもなっているのです。

かつてのダーリントン・ホールは、
世間でも名を知られた紳士淑女たちが集まる
一流の社交場でした。

ときには、政界の要人たちを招いて、
国家や欧州全土を揺るがす問題について、
積極的な意見が交わされることも
ありました。

その会場運営を指揮していたのは、
ほかでもない、スティーブンスです。

あくまでも裏方とはいえ、
その現場に居合わせたも同然です。

彼は「歴史が動く瞬間」を目撃した
いわば生き証人でもあるわけです。

みずからの執事人生を振り返り、「私は偉大な紳士に仕え、そのことによって人類に奉仕した」と断言できる執事こそ、真に「偉大な」執事であるに違いありますまい。

P167(『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、早川書房、2001年)

ダーリントン卿に仕えた日々は、
スティーブンスにとってまさに
人類に対する奉仕の日々でもありました。

「人類の進歩に寄与」する。

「帝国の繁栄のために」貢献する。

壮大な野心と誇りを抱きながら、
彼は執事の務めを果たしてきたのです。

そんな彼の主張する「執事の品格」とは、
そのような理想に裏打ちされた
大英帝国の一員としてのプライド
表しているともいえるでしょう。

【3】信用ならない語り手

ところで、このスティーブンスに対して、
ちょっとした違和感を抱いた方も
多いのではないでしょうか。

言葉と行動が伴っていないというか、
ややズレているような印象を受けるのです。

それも無理はありません。

なぜなら彼は、いわゆる
「信用ならない語り手」の典型的な特徴を
備えた人物だといえるからです。

ちなみに、イギリスの文学作品における
「信用ならない語り手」の代表例としては、

●『嵐が丘』のネリー
●『アクロイド殺し』の「わたし」


これらのキャラクターを
挙げることができます。

スティーブンスの場合には、
次のような点を指摘することができると
思います。

●記憶が曖昧
●思い込みが強い
●矛盾が混ざる
●嘘をつく
●言い訳がましい

いわゆる「神の視点」のように
すべてお見通しのナレーションに対して、

スティーブンスはあきらかに不安定で、
いわば「偏りのある語り手」という印象を
読者に与えるのです。

ではなぜ、スティーブンスの語りは
これほどまでに不安定なのでしょうか。

それおそらく、彼のなかに
迷いがあるからです。

【4】偉大なるものの落日

しかし、どうあがいても、私のサービスは昔の水準に遠く及びません。過ちばかりがふえていきます。(中略)いくら努力しても無駄なのです。ふりしぼろうにも、私にはもう力が残っておりません。私にはダーリントン卿がすべてでございました

P349(『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、早川書房、2001年)

ダーリントンの醜聞、
大切な人たちとの別離、
時代の流れ、
執事としての価値。

自分の人生とは、いったいなんだったのか?

自分の選択は、本当に正しかったのか?

プライドの高いスティーブンスが、
はからずも人前で涙するのです。

彼はなぜ、泣いていたのでしょうか。

ひょっとするとそれは、
元同業者(しかも格下)から掛けられた
慰めの言葉によって、

ようやく得られた満足感(達成感)
による涙だったのかもしれません。

この出来事によって、スティーブンスは
うしろ向きになった心を
もう一度前へ向けることを決心します。

その証拠に、スティーブンスは最後、
ボスのためにジョークの腕を磨こうと
意気込んでいましたよね。

どれほど迷いがあったとしても、彼は
執事としての任務をまっとうすることに、
どこまでも前向きでした。

【5】スティーブンスと日本人

「太陽の沈まない国」として名をはせた
イギリス。

とりわけ第二次大戦以降は、
その華々しい看板を
アメリカへ譲り渡しました。

とはいえ、かつての大英帝国が
完全に衰退したというわけではありません。

“the remains” とあるように、
日の差し込む余地は
わずかでも残されているのだと、
本作は訴えているような気がします。

個人的に興味深いと感じるのは、
著者が「日系人」であるという点です。

日本もかつては、
アメリカをしのぐほどの経済大国として
世界に名をはせた国でした。

出版年にあたる1989年は
まだバブル期の真っただ中です。

economic monster と揶揄されるほど、
昼夜を問わずバリバリ働いていた
かつてのサラリーマンたち。

彼らと、忠実なスティーブンスとの間に
多くの共通点を見出すことができると
感じるのは、
おそらく私だけではありますまい。