【おすすめ本・海外文学】最近読んだ本〈5〉

最近読んだ本〈5〉 最近読んだ本

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まず1冊目は、ドストエフスキーの
『カラマーゾフの兄弟』
です。

『カラマーゾフの兄弟』を読むのは
かれこれ10年ぶりくらいになるかと
思うのですが、

はじめて読んだときには
話に全然ついていけなくて、
読み切るだけでも精一杯
といった感じだったんですけど、

それでも、強烈に印象に残った
シーンやセリフというのがいくつかあって、
なんだかすごいものを読んでしまった、
というのが、その当時の率直な感想でした。

そして、今回改めて
じっくりと読み返してみたんですが、
やっぱりすごいんですよね。

なにがすごいって、今現在、
日本を含めた世界全体が直面している課題
根本的な原因と、それに対する答えが、

物語という形を通して
提示されていることなんです。

『カラマーゾフの兄弟』が発表された
1879年から1880年にかけての時代と、
今年2024年とでは、

世界が様変わりしているようにも
思われますが、

およそ140年という年月を経てもなお、
依然として、くすぶり続けている問題
というのも少なくなくて、

本作でドストエフスキーが
鋭く指摘したような、いわば
人類に与えられた究極の課題と呼べるものが

これからますます現実的な問題として、
私たち一人一人の前に
現れてくるのではないかと、
そんな気がしています。

さて、世界的な名著としても知られる
『カラマーゾフの兄弟』ですが、

数ある有名なエピソードのなかでも
やはり「大審問官」のシーンは、
ひと際異彩を放っています。

「大審問官」というのは、
第5編「プロとコントラ」に登場する
作中作のことで、

カラマーゾフの3兄弟のうち、
次男にあたるイワンが創作した叙事詩として
紹介されています。

翻訳者の解説から
「大審問官」のあらすじを
少しだけ引用しますと、

イワンの大審問官は、十五世紀、カトリックの異端審問のもっとも恐ろしい時代のセヴィリヤに姿を現わしたキリストを捕え、今ごろ何のためにやってきたのかと非難する。

P671(『カラマーゾフの兄弟(下)』フョードル・ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮社、1978年)

ということなんですが、
このエピソードを通じて、私たち読者は、

イワン・カラマーゾフが主張する
「無神論」と、

自分の命を犠牲にして、
神に対する人類の罪を償った
イエス・キリストの「信仰心」との間には、

「愛」と「自由」という
2つの価値観をめぐって、

これほどの認識の差が存在するのだ
ということを
思い知らされることになります。

個人的に特に興味深いと感じたのが、
「大審問官」へと続く兄弟の会話のところで
イワンが弟のアリョーシャに
こういうことを言っているんですね。

結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。

P591-592(『カラマーゾフの兄弟(上)』フョードル・ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮社、1978年)

無神論にもさまざまあるとは思いますが、
イワンのような無神論者にとって
なにが受け入れがたいのか?というと、

神様の存在そのものではなくて、
神様の創ったこの世界なんですね。

神様の偉大さはよくわかるけれど、
その神様が創ったこの世界には
あまりにも理不尽なことが多すぎると、

そんな世界が許せないと、
こういうわけです。

ここまでずばりと指摘されてしまうと、
まあ確かに、世のなかには理不尽なことが
山ほどあるし、

神様はどうしてそれを
黙って見過ごしているんだろう?と
憤る気持ちというのは、
よくわかる気がします。

ただ、こういう場合、神の真意というものは
人間の思考や感情では、理解することなど
到底できないのではないか?
という気もしていて、とにかく、

どんなに入場料が高くついたとしても、
一度手に入れたからには、

精一杯生きる以外には
方法はないんじゃないかな
という気もします。

スピリチュアルの世界で
よく言われることとして、なにより、
その入場券を欲しがったのは、ほかでもない
その人自身であるからには、

途中であきらめて、
「謹んで切符をお返しする」というのは、

「いのち」というものに対して
ちょっぴり失礼な話にも
聞こえるんですよね。

では最後に、物語のなかで
「大審問官」や「無神論」に対する
もう一方の流れ、

これは「信仰を重んじる人々」と
言い換えてもいいかもしれませんが、

その旗振り役として登場する
ゾシマ長老のセリフから
一つだけ引用して終わりたいと思います。

自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。

P136(『カラマーゾフの兄弟(上)』フョードル・ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮社、1978年)

これはなかなか、読んでいて
耳が痛くなるような言葉ですが、

でも確かに、あまりにも高いところから
世界を見下ろす癖がついてしまうと、
細かいところが
全然見えなくなってしまうんですよね。

つづいて2冊目は、
シェイクスピアの『ハムレット』です。

『カラマーゾフの兄弟』を読んだあとでは、
この作品から受ける印象というのも
それまでとはガラリと変わってしまったような
そんな気がしています。

今回読んだちくま文庫版には、
シェイクスピアの研究者としてもおなじみの
河合祥一郎による解説が収録されていて、

ちなみに私は、
『あらすじで読むシェイクスピア全作品』
という本を読んだことがきっかけで、

シェイクスピアのおもしろさに目覚めた
ということもあって、
河合祥一郎はお気に入りの翻訳家でも
あるんですけど、

その解説もまた見所で、
「原ハムレット」の話から
作品にまつわるさまざまな解釈に至るまで

『ハムレット』を読み解くうえでは
欠かせない、
基本の「き」を知ることができます。

私のなかでは、
この『ハムレット』という作品は、

フロイトの精神分析批評でもおなじみの
エディプス・コンプレックス、
いわゆるマザコンってやつですね、

これをメインテーマに扱っているものとして
認識していたわけですが、

今回改めて再読してみると、
主人公のハムレットには、どことなく、
イワン・カラマーゾフの面影があるような
気がしました。

というのも、
『カラマーゾフの兄弟』のなかでは実際に、
『ハムレット』について言及している箇所
というのがいくつかあるのと、

それから「父殺し」という
共通のテーマを一つとっても、

ドストエフスキーが『ハムレット』を
強く意識していたことは、
どうやら間違いなさそうです。

ただ、ハムレットとイワンのそれぞれを
待ち受けていた運命というのは
大きく違っていて、

これは、「復讐」と「赦し」という言葉に
言い換えることができるかもしれませんが、

つまり、ハムレットは
「復讐を果たす」という運命を
受け入れることによって
自身の名誉を守り、

反対に、イワンは
「赦しを与える」という運命を
拒絶することによって、

精神錯乱の状態に陥り、
我が身を滅ぼすという結果を招きます。

ハムレットにしても、イワンにしても、
自分の人生というものに対して
深い絶望を感じていて


どうせいつかは
すべて消えてなくなってしまうのに、
こんなものになんの意味があるんだ?
といった具合に、

厭世的な考えにとらわれてしまって、
なかば自暴自棄になっていたのではないか?
ということが推測されます。

ちなみに、主人公のハムレットは、
ウィッテンベルク大学に
留学していたそうなんですが、
脚注に説明があるとおり、この大学は、

宗教改革のマルティン・ルターの大学として、またフォースタス博士(ファウスト)の大学として有名。

P28(『シェイクスピア全集1ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア著、松岡和子訳、筑摩書房、1996年)

とのことです。

『カラマーゾフの兄弟』にも
「ルーテル派」という言葉が
随所に見受けられますが、

このあたりの歴史的な背景というのは、
イワンの「無神論」にも
大きく関わってくるところで、

深掘りするとおもしろい話が
わんさか出てきそうな予感がするんですが、
話が長くなりそうなので
今回はここまでということで。

では最後に、『ハムレット』のなかから、
私のお気に入りのセリフを3つほど紹介して
終わりたいと思います。

そもそも客観的な善悪などない、主観が善悪を作るんだ。

P94(『シェイクスピア全集1ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア著、松岡和子訳、筑摩書房、1996年)

思考というやつ、四分の一だけが知恵で四分の三は臆病

P191(『シェイクスピア全集1ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア著、松岡和子訳、筑摩書房、1996年)

いま来るなら、あとには来ない。あとで来ないなら、いま来るだろう。いま来なくても、いずれは来る。覚悟がすべてだ。生き残した人生のことなど誰に何が分かる。

P256-257(『シェイクスピア全集1ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア著、松岡和子訳、筑摩書房、1996年)

今回紹介した3つのセリフはすべて、
主人公ハムレットのセリフになります。

考えるばかりで、なかなか行動できない人
というイメージが強いハムレットですが、

考える人は考える人で、
それなりの鋭い洞察力を持っていることが
わかるかと思います。

周囲の人間の悪行に対する怒りというよりも
人の命のはかなさに対する悲しみ
あったからこそ、

行動することについて
二の足を踏んでいたのかもしれませんが、

だからこそ、正義を果たして、
名誉を守ることを決意し、
王にとどめを刺した主人公の姿には、

久しく忘れ去られてしまった
人間の気高さというものを
今一度思い出させてくれるような、
そんな力強さがあったように思います。

つづいて3冊目は、
ゴールズワージーの『林檎の樹』です。

川端康成の『伊豆の踊子』は、
この、ゴールズワージーの『林檎の樹』に
触発されて書かれた
という逸話がありますが、

実際に読んでみると、
オマージュといえるほど
似通っているわけでもないので、

川端康成は、よくあれほどまでに、
奥深い物語として
アレンジすることができたなと思って、
むしろ驚いてしまったくらいです。

ゴールズワージーの作品は
今回はじめて読んだんですけど、
かなり時代を感じる、といいますか、

現代の感覚では、
容易には理解しがたい言動というのも
いくつかあって、

好き嫌いが結構はっきりと分かれそうな、
そんな印象を受けます。

本作は、都会の裕福な青年と
田舎の小さな農場の娘の
切ないラブストーリーを
描いているわけですが、

2人の間に立ちはだかる
「身分の違い」という壁を
駆け落ちという手段を使って
強行突破するのかと思いきや、

青年の心変わりという
なんともあっけない理由で
いとも簡単に断念して、

別れ話もないままに、青年は娘を捨てて、
ロンドンへ帰ってしまうんですね。

あれほど牧歌的なムードを
盛り上げておきながら、

世間体を気にするあまりに怖気づいて、
そそくさと自分の世界へ逃げてしまう
青年の姿には、興ざめさせられるばかりで、

この青年は、実のところ、
娘に恋をしていたのではなくて、

娘に恋する自分自身に
舞い上がっていただけなのではないか?
という気がしてならないんですよね。

途中からはもう、
純粋な乙女の恋心を弄んだ
薄情な男の言い訳を
長々と聞かされているようで、

うんざりした気分に
なってしまったんですけど。

まあでも、これだけの話だったら、
「ミーガンは、アシャーストみたいな男と
駆け落ちしなくて、むしろ正解だった」と
思い直すことができたのかもしれませんが、

最後の最後で追い打ちをかけるように、
胸くそ悪い結末が待ち受けていてですね、

本当にうんざりしてしまったといいますか、
もちろんこれは、
あくまでも個人の感想なんですけど。

文庫本の巻末に収録されている解説にも、

作者の真摯な心構えはよいとしても、作品が妙にそらぞらしく、現実の迫真性を持たない。

P147(『林檎の樹』ジョン・ゴールズワージー著、法村理絵訳、新潮社、2017年)

という指摘があって、
まさしくそのとおりだなと思います。

もしかすると、これは
表現方法の問題なのかなと思ったところが
ちょっとあって、

というのも、ギリシア神話のような
世界観を持った牧歌的な詩として、
この悲恋を描くのであれば、
まだよかったのかもしれませんが、

小説という形式を採用するとなると、
この内容ではあまりにも貧弱な感じが
するんですよね。

『林檎の樹』が発表されたのは、
第一次世界大戦の最中である
1916年なんですけど、

文庫本の解説にも指摘があるとおり、
戦争によって破壊されてしまった
古き良き時代をしのぶセンチメンタリズム


この物語のなかに秘められていたと
考えれば、

溜飲が下がるじゃないですけど、
少しだけ胸がすっきりしたような
気もします。

これで最後になります。

4冊目は、T・S・エリオットの
『キャッツ』
です。

大人気ミュージカルとしてもおなじみの
『キャッツ』ですが、

原作は、長編詩『荒地』
作者として知られる
T・S・エリオットの作品になります。

ミュージカルの『キャッツ』に関していえば
私はまだ舞台を鑑賞したことはなくて、
ずっと前にDVDで視聴したことがあるだけ
なんですけど、

やはり、グリザベラの『メモリー』と
ラム・タム・タガーのシーンが
強く印象に残っていて、

あんまり、文学的な詩のイメージが
なかったんですよね。

巻末の「訳者あとがき」には、

この猫詩集は、もともとエリオットが勤めていた文芸出版社、「フェイバー・アンド・フェイバー」の社員の子供たちのために書かれたといわれています。

P125(『キャッツ─ポッサムおじさんの猫とつき合う法』T・S・エリオット著、池田雅之訳、筑摩書房、1995年)

とありますが、

このちくま文庫の『キャッツ』にも
同じことが言えて、
実際にページをパラパラとめくってみると
わかるように、

カラフルな挿絵もたくさん掲載されていて、
子ども向けの絵本を読むような感覚で
詩を楽しむことができます。

原作とミュージカルとでは、
登場する猫たちの顔ぶれも違っていて、

たとえば、代表曲『メモリー』を歌う
グリザベラは、
原作には出てこないんですね。

ラム・タム・タガーは出てきます。

ちなみに、
「ラム・タム・タガー」という名前には、
「ぐいぐいと引っ張っていく人」という
意味があるそうなんですが、

原作のラム・タムは、
ミュージカルの方に出てくる
カリスマ・ロックン・ローラーのような
猫ではなくて、

ラム・タム・タガーは、あまのじゃく。人間様の気持ちに逆らうのが、習い性。

P32(『キャッツ─ポッサムおじさんの猫とつき合う法』T・S・エリオット著、池田雅之訳、筑摩書房、1995年)

とあるように、気まぐれに
やりたい放題やってしまう
わんぱく小僧みたいな、
そういう猫なんですね。

原作の詩のなかで
私が個人的に気に入ったのは、

最後に登場する
「鉄道猫スキンブルシャンクス」こと
スキンブルの話で、

挿絵のページに、
駅長のおじさんとスキンブルが
両手を挙げて踊っている
シュールな絵が載っているんですが、

スキンブルが、夜汽車の運行を見守る様子が
なんとも微笑ましくてですね、

スキンブルがおもてなししてくれるのなら、
私もぜひとも乗ってみたいなと
思ったんですけど。

このように、ミュージカルの演出とは
また違った角度から
個性豊かな猫たちの世界を
垣間見ることができます。

サクサクと読み進めることができる
作品でもあるので、
興味を持った人は
ぜひ一度手に取ってもらえたらと思います。