青い眼がほしい(トニ・モリスン)|作品を読み解く3つのポイント

青い眼がほしい アメリカ文学

TITLE : The Bluest Eye
AUTHOR : Toni Morrison
YEAR : 1970

GENRE : Social Problem

marigold
画像提供:pixabay

わたしたちは、彼女を犠牲にして自分たちの自我(エゴ)をみがき、彼女の弱さでわたしたちの性格に詰めものをし、自分たちは強いという幻想を抱いて、あくびをした。

P303(『青い眼がほしい』トニ・モリスン著、大社淑子訳、早川書房、2001年)

テーマ:怒りの投影

【作品を読み解く3つのポイント】
1、青い眼の正体
2、暴力の連鎖
3、ピコーラと「わたし」

【1】青い眼の正体

まずはじめに、この作品の根底には、
心理学者のクラーク夫妻によって行われた
「人形テスト」の影響があることを
指摘しておかなければなりません。

説明すると長くなってしまうので、
実験の詳細については割愛しますが、

内容が気になるという方は、
心理学関連の書籍や、ウェブサイト等を
各自で参照してみてください。

その神が、「おまえたちは醜い」と言ったのだ。彼らはまわりを見まわしたが、この言葉と矛盾するものは何も目に入らなかった。それどころか、すべての広告板、すべての映画、すべての視線から、これを支持するものばかりが押し寄せているのを見た。

P58(『青い眼がほしい』トニ・モリスン著、大社淑子訳、早川書房、2001年)

クラーク夫妻が、「人形テスト」の実験で
明らかにしたのは、
幼い子どもたちにまで根を下ろした
「人種としての劣等感」でした。

ピコーラは、折に触れて、
「青い眼にしてください」と祈り続けます。

彼女はなぜ、これほどまでに
「青い眼」にこだわるのでしょうか。

その理由はおそらく、この「青い眼」が、
彼女のなかに芽生えた「自己蔑視」
象徴しているからなのかもしれません。

「青い眼」を欲することは、
「自分ではないものになりたい」という
ピコーラの願望を表しているといえます。

そのとき、彼女は自分自身に対して、
自虐的な「白い目」を向けているのです。

【2】暴力の連鎖

彼女にはチョリーの罪がどうしても必要だったのだ。彼が下へ下へと沈めば沈むほど、また、ますます凶暴に、無責任になればなるほど、彼女と、彼女のつとめはそれだけいっそう輝きをましてくるからだった。

P63(『青い眼がほしい』トニ・モリスン著、大社淑子訳、早川書房、2001年)

本作は、人種差別の実態を
白人と黒人の格差に尋ねるのではなく、
同じコミュニティの内部ではびこる
「暴力の連鎖」としてあぶり出します。

世代を超えて繰り越される
深刻な貧困の問題に加えて、

物心のつかない幼少期から
無意識のうちに根付いた強烈な劣等感
人々の心身をむしばんでいきました。

そして、人間の心理の常として、
そのようなストレスの蓄積は
次第に「はけ口」を求めるようになります。

ブリードラヴ一家の生々しい依存関係。
(暴力を媒介とした共依存の関係)

彼らに対する、近隣住民の嫌悪感。
(ピコーラが被る理不尽の数々)

怒りの矛先は常に、
もっとも身近な弱者に向かいます。

ブリードラヴ一家と、
その周囲の人々の間に蔓延していた
「暴力の連鎖」は、

最終的に、ピコーラという犠牲を
「はけ口」に求めたのです。

【3】ピコーラと「わたし」

最初の侮辱にはげしい勢いを与えているのは、自分たち自身の黒さにたいする軽蔑だった。(中略)彼らは、自分たちの慰みのために、この哀れな娘をいけにえとして、焔をあげて燃えている穴に突き入れようとしていた。

P97(『青い眼がほしい』トニ・モリスン著、大社淑子訳、早川書房、2001年)

本作について、もっとも特筆すべき点は
「語り」の構成の絶妙さ
といえるのではないでしょうか。

「著者のあとがき」にもあるとおり、
モリスンは、ピコーラの悲劇を
さまざまな角度から眺めることが
できるように工夫しています。

クローディア、ジェラルディン、
ポーリーン、チョリー、
ソープヘッド・チャーチ。

この物語には、
一貫した語り手というものは存在せず、

各エピソードごとに、
生まれ育った環境も、現在の暮らしぶりも、
まったく異なる人々が
「語り手」を務めています。

しかし、非常に興味深いことに、
彼らの視線がピコーラをとらえるとき、
語り手たちの心には、決まって
怒りが込み上げてくるのです。

そしてそれは、皮肉なことに、
ピコーラ本人の場合にも当てはまります。

なぜなら、先ほども指摘したとおり、
「青い眼がほしい」と切望する彼女は
自分自身を嫌悪しているといえるからです。

観察者である語り手と、
観察対象となるピコーラを
共存させつつも、あえて切り離しておく。

このような物語の構成によって、
ピコーラが体現する「自己嫌悪」を
主観的にも、客観的にもとらえることが
可能になります。

「青い眼」に映る、悲しみと怒り。

その眼を、内側からのぞき込むのと、
外側から眺めるのとでは、
見えるものがまるで違ってくるはずです。