キリスト教の精神とは?―戦争と国際法を知らない日本人へ

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今回は、小室直樹の
『戦争と国際法を知らない日本人へ』

という本を参考に、

キリスト教の精神について
考えてみたいと思います。

『戦争と国際法を知らない日本人へ』という
このタイトルからして、
なんだか身構えてしまいそうになりますが、

実際に読んでみると、
ここに書かれていることというのは
あくまでも、国際法の成り立ちというものに
焦点が当てられていることがわかります。

ここには、ヨーロッパの王族と
ローマ=カトリック教会の
相互的な利害関係が強く影響していて、

歴史を知らないまま
ひたすら政治や経済の知識を
つめ込んだのでは、

ほとんど意味がないということが
よくわかります。

とはいえ、私自身は、
政治のことも、経済のことも、
よく知らない素人なので、

本書の後半部分で解説されている
国際法の実例に関する事柄については、
興味のある方に
各自で読んでいただくことにして、

今回はひとまず、
国際法の成立の背景となった

ローマ=カトリックにまつわる簡単な歴史と
その信条について、
お話していきたいと思います。

カルケドン信条(三位一体の正統性)①

国際法の基本の「き」が
「イエス・キリストは神である」という
信条にあるのだと言われても、

いまいちピンと来ない人も
いるかもしれませんが、

この、いわゆる「三位一体」の信条
というのが非常に重要で、

この信条を共有することによって、
ヨーロッパの精神的な基盤が
形成されていくことになります。

キリスト教には
さまざまな宗派があることからも
わかるように、

聖書の内容にまつわる解釈
聖書に登場する人物の扱い方などをめぐって
時には、激しく対立することも
あったわけですが、

古代には、世界史でもおなじみの
「公会議」と呼ばれる集会が開かれて、
教義や教会の規則に関して

お互いの足並みをそろえるという試みが
幾度もなされてきました。

この公会議は、
当初はローマ帝国の皇帝が主催していて、

のちに、ローマ教皇が
その役割を引き継ぐように
なったそうなんですが、

その主な目的は、「異端を排除する」
ということにあったんですね。

カルケドン信条(三位一体の正統性)②

さきほど触れた
「イエス・キリストは神である」という
信条に代表される三位一体説も、

はじめから満場一致で
受け入れられていたわけではなくて、

キリスト教徒のなかにも、
「イエス・キリストは神ではない」とする
見方もあったそうなんですが、

コンスタンティヌス帝によって開催された
第一回ニケーア公会議では、

「イエス・キリストは神ではない」
と主張したアリウス派は、
「異端」として認定されました

ここで注目したいのは、
「イエスは神なのか?人なのか?」
という大論争が、

三位一体説という形で集約されていくなかで
ローマ教皇の影響力が増していった
ということなんですね。

キリスト教の五本山

現在では、バチカンのあるローマが、
カトリックの総本山として
認識されていますが、

キリスト教が国教化された
ローマ帝国の末期には、
「五本山」と呼ばれた教会があって、

それが、ローマ、コンスタンティノープル、
アレクサンドリア、エルサレム、
アンティオキア、
の5つになります。

アレクサンドリアと、エルサレムと、
アンティオキアの3つは
のちにイスラム教の支配下に入り、

ローマと、コンスタンティノープルは、
教会のヒエラルキーのなかで
首位を争った末に西と東に分離して、

西方教会はローマ=カトリック
東方教会はギリシア正教として
キリスト教の世界を二分することと
なりました。

ローマ=カトリックに関していえば、
西ローマ帝国が崩壊したあと、

新興勢力として台頭した
ゲルマン民族の一派である
フランク族の王と手を組んで、

「神聖ローマ帝国」を興して、
ヨーロッパの原型を形成していくことに
なります。

福音書に戒律はない?①

ここで、キリスト教徒にとっての
最高の啓典である
『福音書』の特色について
少しだけ触れておきたいんですが、

この福音書には、同じく聖書を聖典とする
ユダヤ教の『トーラー』や、
イスラム教の『コーラン』とは違って、

戒律・法律・規範にあたるものは、
一切提示されていない
のだと
著者は指摘しています。

福音書に戒律はない?②

たとえば、イエス・キリストの言葉に、

「狭き門より入れ、
滅びにいたる門は大きく、その路は広く、
これより入る者多し。」


という有名な格言がありますが、

ここには、神の救いを得るためには、
どれほどの困難を克服する必要があるのか?

ということについては、
明確に示されていないんですね。

もしこれが、宗教の戒律であるならば、
信者が判断して、
教えを守ることができるように、

具体的に、これをやって、あれをやって、
あるいは、こんなことはしてはいけない、
などと、
細かく指示を出しておく必要があります。

要するに、福音書のなかで
語られていることというのは、

具体的な数値を示して、
信者の行動を命令したり、
禁止したりするものではないため、

イエス・キリストが残した
さまざまな格言というのは、あくまでも、
信者の心がけを促すものでしかない
というわけです。

このような特色から
福音書を信奉するキリスト教の社会では、
必要に応じて、

近代法、近代政治(とくにデモクラシー)、近代経済(資本主義)が生まれてきて、近代国際社会を形成し、その諸原則が ヨーロッパの外にも波及していくことになった

P18-19(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

と著者は指摘しています。

3つのポイント

さて、ここまでのところで、
「イエス・キリストは神である」
という信条を掲げる
ローマ=カトリック教会を中心として、

ヨーロッパの精神的な基盤が
確立されたこと、

そして、キリスト教徒が信奉する
『福音書』には戒律がなくて、

その教えは、あくまでも
信者の心がけを促すものでしかない、
ということを簡単に説明してきましたが、

ここからは、
ローマ=カトリックに代表される
キリスト教的な価値観
について

もう少し詳しく掘り下げてみたいと
思うのですが、

この動画では、本書の内容から、
私パイヌが個人的に
特に興味深いと感じた点を

3つのポイントにまとめて
サクッとお話していきたいと思います。

人間に自由意思はない

まずはポイント1
「人間に自由意思はない」ということで、

なにより、聖書の世界では、
神と人間は明確に区別されるものである
ということを
理解しておかなければなりません。

聖書に登場する神様というのは、
全知全能、唯一絶対の存在であって、

「天地とその間にある
すべてのものを創造した」
万物の支配者でもあります。

これに対して、人間は、
神様が禁じた「知恵の樹の実」を
食べてしまったことによって、

永遠の生命を否定されて、
楽園を追放された
「罪深き存在」であることが
語られています。

さきほどお話ししたように、
キリスト教では、三位一体説によって、
「イエス・キリストは神である」
ということが公式に認められたわけですが、

神様と人間の性質を兼ね備えた
イエス・キリストとは違って、
人間には、意思の自由はないということが
強調されています。

自叙伝の『告白』で知られる
司教アウグスティヌスは、

人間は、自分の力で善をなすことはできない、善をなすのは、すべて神の恩恵(grace)に依るのである。

P25(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

と主張したそうなんですが、
このアウグスティヌスの理論には、
「キリスト教の神髄が要約されている」
と著者は指摘しています。

つまり、人間が自ら進んで
善い行いをしたとしても、
それは本人の自由意思によって
行われたものではなくて、

その人は、神様の恩恵によって、
神様の意思を果たすための行いを
「させてもらった」と考えるのです。

ところが、ここで一つ、
重大な問題が発生します。

宗教改革の真実

それが次のポイント2
「宗教改革の真実」ということなんですが、

さきほど説明した「人間に自由意思はない」
というアウグスティヌスの理論が、
後世のカトリック教会に
大きな火種を持ち込むことになります。

ルターの宗教改革は、

「免罪符」に代表される
カトリック教会の腐敗を
痛烈に批判したことによって
はじまったのだと、

そのように認識している人も
多いかもしれませんが、

実際には、この免罪符や
教会の腐敗というのは、
あくまでも副次的なものであって、

ルターの真の目的は、
より本質的な事柄に起因している
のだと、
著者は指摘しています。

では、ルターが問題視したこととは、
いったいなんだったのかといいますと、
それが、修道院の存在なんですね。

ルター説の要諦

修道院では、救済にいたるための手段として
禁欲的な生活を送りながら、

厳しい修行に励んだり、
善行をなして徳を積んだりしている
わけですが、

これは、神の恩恵に
背くことにあたるのではないか?
と、
ルターは考えたわけですね。

なぜなら、本来人間は
自由意思を持たない存在であるため、
神様の恩恵なくしては、
善をなすことなど到底できないはずなのに、

人間が自ら進んで修行や善行に邁進して、
救済を得ようなんて
思い上がりも甚だしいと、

ましてや、人間は、
かつて神の命令に背いて
「知恵の樹の実」を食べたことで、

楽園を追放された
「罪深き存在」であることを、
(これを聖書では「原罪」といいますが)

これをすっかり忘れてしまったのかと、
ルターはそのように考えて、
これを問題視したといいます。

さらに言えば、教会で執り行われる
「聖礼典(サクラメント)」
という儀式についても、
やはり同じことが言えて、

こうした「外面的行動」によって
人間が救済される
という考えは、
本来のキリスト教の精神からは
大きく逸脱するものであると、

ルターは主張したんですね。

これに対して、カトリック教会は
どのように反論したのかといいますと、

内面的行動と外面的行動の峻別

次のポイント3
「本音と建前」ということで、本書では、
「パウロ的人間行動の内外峻別」
という言葉で説明されているのですが、

使徒パウロは、
「キリスト教徒は、内面において、
イエス・キリストを信じていればよい。」

「外面的行動は何であってもよい。」と、
このように主張したと言います。

ちなみに、使徒パウロというのは、
「パウロの回心」で有名な
あのパウロのことで、

はじめのうちユダヤ教徒として、
キリスト教徒を取り締まる側の
人間だったのが、

ある日イエス・キリストの天の声を聞いて、
身をもって奇蹟を体験し、それを機に、
キリスト教に回心した
という人物なんですが、

このパウロが、
伝道活動をしていた頃というのは、
キリスト教徒が迫害されていた
時期でもあって、

キリスト教徒であることがわかると、
最悪の場合、命の危険にさらされることも
あったんですね。

そのような事情もあって、たとえば、
キリスト教を信仰している人が
表向きには、キリスト教を受け付けない
ローマ市民としてふるまったとしても、

それは差し支えないのだと、
パウロは考えたわけです。

このように、信者の内面的行動と
外面的行動が伴わなくても
良しとする考え方
が、

神学的に体系化されると、
どういうことになるのかといいますと、

教会の権威

ポイント1の
「人間に自由意思はない」のところでも
登場した、アウグスティヌスは
次のように主張しています。

教会の権威は、ペテロに由来するのであるから客観的なものであり、聖職者個人の道徳的行動とは無関係である

P63(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

これはつまり、

法王や司教などが、どんなにわるいことをしても教会の権威はそこなわれないという論理である。

P63(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

と著者はこのように指摘しています。

これは、読んでいて、
個人的に一番驚いたところでもあって、
「その論法はアリなの?」と
思わず首をかしげてしまったんですが、

人間はそういう生き物だから
間違いを犯すのも当然だし、
一人間にすぎない聖職者が
いくら間違った方向へ進んだとしても、

教会の権威はびくともしないのだ
と言われても、

信用が傷ついてしまったら
元も子もないのでは?
と私のような素人の考えでは、
そういうふうに感じてしまいます。

予定説とは?

ただ、究極的な話をしますと、
キリスト教の価値観のなかには
「予定説」というものがありまして、
それが、

神は、天地創造より前に、誰を救済し、誰を救済しないかを決めた

P71(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

という考えで、つまり、

救済されるかされないかは、当人のおこないとは全く関係がない。

P70(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

と主張しているんですね。

神様は、人間の道徳観や
社会のルールといったものに束縛されない、

神様は、自らの意思に基づいて、
その目的を達成するだけであると、

極論すれば、

悪人が極楽へゆく。善人が地獄へゆく。これもあり得る。

P70(『戦争と国際法を知らない日本人へ』小室直樹著、徳間書店、2022年)

と著者はこのように指摘していますが、

ここまでくると、なかなか
すんなりとは受け入れがたいといいますか、

なんだか『ヨブ記』のヨブみたいで、
とても理不尽な話にも聞こえます。

『失楽園』でおなじみのミルトンは、
この「予定説」を
痛烈に批判したそうなんですが、

これは、前回紹介したドストエフスキーの
『カラマーゾフの兄弟』にも
通じるところで、

ミルトンが神に対して感じた
怒りや無力感といったものを
イワンも感じていたのではないかと、
そんなふうに想像してしまいます。

はい。ということで、
本編は以上になります。

今回紹介した内容というのは、
この本に書かれていることの
ほんの一部にすぎないので、

少しでも興味を持った人がいれば、
実際に本を手に取ってもらえたらと
思います。